荒川区における商業は、大正時代になってから発展してきた。それまでは、千住大橋の日光街道筋に僅かに軒を連ねる程度であったが、大正11年の王子電車の開通に伴い、その起点の三ノ輪橋や沿線の町屋、熊野前、小台などに商店街が形成されるようになってきた。さらに、関東大震災以降の工場の進出、人口の急増に伴い、日用生活必需品を中心に商店も増え、昭和10年代には、9,000余りを数えるに至った。
しかし、太平洋戦争により、荒川区の総面積の45%、家屋の66%が焼失、罹災をまぬがれた商店も南千住1丁目、6丁目を中心に1,500余りに過ぎず、商店及び商店街の経営は全く成立しない状況となり、商業界が受けた傷跡は実に大きなものであった。終戦とともに復興も着々と進み、昭和26年には世帯数51,351、人口223,140名となり、ようやく商店街らしきものが自主発生的ながら点々として誕生した。
しかし、当時は復興にのみに汲々として、大規模な区画整理が行われなかったため、無計画に商店街が構成されたことは、当区商店界に千載の禍根を残す結果となったが、一応現在の商店街構成の揺藍となった。当区と同様に都内の商店街も自然発生的に散在し、各商店街間に何等の連携も統ーもない状態で、都内商業の復興は遅々として進展しなかった。
このことを憂慮して、東京都や各区においては、商業振興策として、商店街連合会を結成することを要請し、昭和26年10月1日に東京都商店街連合会が成立した。続いて同日、当区においても荒川区商店会連合会(昭和44年4月1日に荒川区商店街連合会に改称)を結成した。
創立当時は各商店も完全に整備されていないので参加商店街も会員数も少なく、事業数も事業予算も少額で(1店舗、1ヵ月の会費は10円)あったため、臨時会費、資金カンパ、協賛金等によりまかなわれていた。区商連事務も区の商工課の職員が担当し、事務局が独立運営するようになったのは、昭和34年10月以降である。
設立当時、連合会へ加入した商店街は18会、会員は720名であったが、高度成長期には49商店会、会員2,300名までに発展した。
しかし、バブル崩壊以降の日本経済の停滞、大型店の進出、少子高齢化による人口の減少、リーマンショックなど商店街を取り巻く環境は厳しい状況が続いており、現在は商店街38会、会員約1,400名となっている。